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東明雅の連句Q&A
 

 
24・現代連句の「雅」と「俗」
七部集を読みますと、「雅」と「俗」が上手に織り込まれていると感じますが、現代の連句における「雅」と「俗」はどのようにとらえればよいのでしょうか。
 

 
連歌は「雅」の文学でありました。それを俗にくずして新しい庶民の文学を創り出そうとしたのが俳諧であります。いわば「帰俗」は連歌から俳諧が生まれる契機であり、このために近世庶民の間に大流行して、遂には連歌を衰亡させてしまいました。しかし、その後、貞門や談林によって一途に「帰俗」の道を突っ走った俳諧は、進めば進むほど低俗なものになってしまい、遂に行きづまってしまいました。この俳諧の危機を救ったのが、杜甫や李白、あるいは西行の文学精神(「雅」)を取り入れた芭蕉の「冬の日」であります。だから、同じ七部集でも、「冬の日」は最も「雅」の要素が多く、「猿蓑」は「雅」・「俗」の割合が理想的に取り入れられており、「炭俵」になると、「軽み」の主張と相俟って、だんだん「雅」の句は少なくなっているようです。

そのあと、この「炭俵調」の模倣を最高とする風潮が俳諧壇を支配し、低俗な作風は止まるところを知らず、世の中に蔓延するに至りました。これを嫌って蕪村が「離俗論」を唱えたのは有名であります。蕪村は安永六年に出版した「春泥句集」の序文に、俳諧は俗語を使って俗を離るるのがよい。俗を離れて俗を用いるのだから、離俗の法が最もむずかしいが、その方法として、漢詩を読み親しむのが一番早道であると教えております。蕪村自身も漢詩・漢文で中国の高邁な文学精神を吸収して浪漫的な作風を示す俳諧を完成し、俳諧中興の祖となったのでありました。「ももすもも」・「一夜四歌仙」など、すばらしい作品が残っております。

ただ、この蕪村の俳諧中興も、滔々たる低俗俳諧の流れを改めることが出来ず、幕末にその弊は極に達し、ついに明治二十六年、正岡子規によって、「発句は文学なり。連俳は文学に非ず」と言わしめたのは、当時の俳諧作品の低俗さにその一因があると思われます。

昭和になって復活した現代連句では、以上の俳諧の歴史に鑑み、蕪村の手法を参考に、新しい「雅」を求め、それを作品の中に活かして行くべきでしょう。芭蕉は杜甫・李白、西行・宗祇・雪舟・利休に「雅」を求め、蕪村も漢詩、其角・嵐雪・素堂・鬼貫に「雅」を求めました。

現代連句人はこのようなすぐれた漢詩人・歌人・俳人らの作品は勿論のこと、ひろく東西のすぐれた文学・音楽・絵画、その他一切の芸術の中に「雅」を求めるべきでしょう。
 

●「猫蓑通信」第24号 平成8(1996)年7月15日刊 より

 
 
 
 
 
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