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東明雅の連句Q&A
 

 
18・月花の意義と出し方
付け合いで、「花の句」「月の句」が型通りに出てしまい、もの足りない時がありますが、連句における「月」「花」はどんな意義があるのでしょうか。
 

 
昔、和歌・俳諧の材料の中に、五箇の景物というものがあった。花・時烏・月・雪・紅葉をいうが、連歌師猪苗代兼載(一四五一〜一五一〇)の「連歌本式」には「雪・月・花・郭公・寝覚を景物といふ也」とある。この寝覚は恋で、花(春)・時鳥(夏)・月(秋)・雪(冬)・寝覚(恋)として、特に重んぜられたものである。

その名残が現代の連句にも残り、中でも花と月とは、それぞれ定座を持っており、また恋も必ず一巻に一ヶ所は詠むべきものとされている。

花と月の句を重視するのは、このように和歌・俳諧・連歌の時代からの日本人の美意識の名残で、それを詠むことが名誉とされていたからこそ、一巻の中の数も詠む場所も決められたのであったが、現代人、ことに若い人は、この伝統的な美意識に盲従しない人も多いので、このような質問が出るのは当然であろう。ことに月は、昔と言っても江戸時代までは、人々の生活と密接に結びついていたために、当時の人々は、我々の想像以上の親しみを月に対して持っていたのである。

しかし、私は一巻三十六句の中、各折の折端の前にそれぞれ花の定座がおかれ、各面のほどよい所に、ナウを除いて三つの月が配置されているのは、春・花・陽に対して、秋・月・陰を置いて、一巻の情景・気分に自ら一つの変化を与えているのは見事だと思う。もし、月三つ・花二つを一巻の中、どこにちらばらせてもよいというならぱ、悪くすれば一巻は混乱して収拾がつかなくなるのではあるまいか。あるいは月・花は詠まなくてもよいということになれば、褌をしめないで相撲を取るように、連句はとらえどころがないものになってしまうのではなかろうか。

いわば、月・花・恋は、現代連句を作る上に題材の要になるものである。

御承知の通り、「月は出るにまかせよ、花は咲くにまかせよ」と、昔から言われている。月の定座・花の定座、それぞれの面、あるいは折の中での引き上げやこぼし(これは月のみだが)はそれこそ自由であり、古人も決して咎めてはいない。むしろ定座の場合にだけ月・花を出すというのは、それこそマンネリズムになり、月も花もマンネリに陥る危険性があろう。それを念頭に月三・花二をそれぞれ指定された面・折の最も適当な箇所に一箇ずつ、どのような新しい月・花を出すかを心がけるべきであろう。
 

●「猫蓑通信」第18号 平成7(1995)年1月15日刊 より

 
 
 
 
 
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